心の生け簀

自分のスキを好きにするためになんかするブログ

そんな感じで

「先輩、先輩!ここにおーいしーって書いてありますよ!一軒家に見えますけど料理屋なんですかね?」

「阿呆、それは大石さんちだ」

などというボケをぶらぶら出歩いてたときに大石さんちの表札を見て思いついたので吐き出しておきます。

というわけで吐き出すついでに日本語について普段ぼんやりと考えていることがあるので吐き出させていただきたい。

日本語についてと大見得を切りましたが、当方は日本語の歴史だとか小難しいことは勉強してませんので、素人考えの唯の言葉遊びでありますので少々ご容赦を。

それでは失礼して。

日本語というのはまず最初に「アイ」を教わる語学なのかなぁなどとぼんやりと考えている次第でして。

と、いうのも我々日本人が英語を教わる際にABC…から始めるのと同様に、日本語を始める場合はあいう…から始める50音、またはいろはに…から始まるいろはうたから始めると思うのです(あくまで思うだけですので実際のところはわかりません)。

そして50音の場合は最初の『あ』と次に学ぶ『い』をあわせて初めて出来上がる意味のある文字列として『あい』が出来ます。『あ』だけでも『い』だけでも意味のある単語はあるのではという反論が聞こえてきそうではありますが、その意見は飲み込んでいただきたいです。

そして次にいろはうたでも最初は『い』。なんだよアイじゃないじゃないかという感想はごもっともではありますが、『い』をローマ字であらわすと『Ⅰ』つまり『アイ』になるのです。

あといろは歌はおいておいて50音の話になりますが『アイ』の次は『う』なんですね。

この『う』もローマ字にあらわすと『U』つまり、『ユー』となって。

『アイ(=I【自分】)』を知った後に『ユー(=U=YOU【あなた】)』を知ることになるのはなんだか面白いなぁなんて感じる次第でありました。

後、『アイ』を使った言葉遊びとしましてよく私の頭の中をめぐっているのはAIってありますよね。人工知能の。

よく映画とかで人工知能が『愛』に目覚める展開があるのは、人工知能の英語の名称が『artificial intelligence』で、略称が『AI』、つまり『アイ』であるから愛に目覚めたりするのはある意味当然ではあるのかなぁなんて思ったりもします。

 

アイという言葉、単語が私の中で占める比重はなんだか大きいみたいでぼんやりアイとはなんなのか私のアイはどこにあるのかなんなのかなどとは日常的に考えている気がします。いつか自分なりの答えが見つけることが出来るのかどうなのかはわかりませんが、私はこれからもアイについて考え続けていくんだろうななんて今の私は思うわけです。

ぼんやり

いつからだろう『終わり』を気にして物語を読むようになったのは。

DVDにしろ本にしろどれくらいの時間なのか何ページなのか何巻まで続くのかを気にして、長ければその時点で大体諦めているように思う。

記憶をたどるとバラエティー番組とかでも終盤に入るどちらが勝利するのか的な煽りとかに対して時計を見て番組の残り時間からして逆転はなさそうだなとか考えていた気もするので『終わり』を気にするのが自分の性分であるということなのだろうか。

かといって『終わり』が訪れた後次に何をするわけでもないのだ。

計画的な人間であれば終わりを気にして物事に取り組むのはよいことなのではと考えるが、自分の場合『終わり』を気にするあまり『始めた』ら『終わらせること』を大前提にしてしまうので、本末転倒な感が否めない。

一心不乱に『終わらせること』はまぁそれ自体も大事ではあると思うのだが、『終わり』までに自分が何を感じたか、何を得たのかということが大事なのではないかなぁと感じる。

 

世界が黒く塗りつぶされたとして一瞬塗りつぶされない部分が出来たらその部分が私なのだろう。

けれど世界は塗りつぶされることはなく各々が各々の色で世界に色をつけている

だとしたならば透明な私は透明な色で世界を塗ることしかできないのだろうか。

 

私ここに在らず。

 

私は生まれながらに己の中に獣を飼っている。

とはいえ、はじめ私と獣は一つだった。ともに生き、共に成長する。
獣の意思は私の意志で、私の意志は獣の意志だった。
しかし、とある時期を過ぎると、私は『私』と『獣』に分けられた。
正しくは『獣』を切り離したというべきか。
『獣』はとても我が侭で、傲慢で、とても自由なのだから。
『私』は『獣』を切り離し、
『私』は『獣』を閉じ込めた。
私の奥の底の底。
誰にも見えない不可視の檻。
『私』と『獣』だけの檻。
私という名前の牢獄。
閉じ込められた『獣』は常に、私を内から傷つける。
それは『獣』を閉じ込めた『私』に対する反抗なのか。
それとも、私を通して見える『外』に手を伸ばしただけなのか。
いずれにしても『獣』の爪は『外』には届かず私に阻まれ、私の内に傷を増やす。
『私』は『獣』と分かたれて『獣』の言葉を忘れてしまい、
『獣』は『私』と分かたれて『私』に言葉は届かない。
『獣』がなんらかの意図を持ち、傷をつけていたのだとしても
『私』は私の内に刻まれた傷の一つと認識をする。

もしも『私』の爪が『獣』の代わりに『外』を引っかくことが出来たなら
もう一度一つになれるのだろうか。

poem

落ちては消える時の砂

閉じ込めたるは砂時計

閉じ込めたはずの時の砂

落ちるそばから消えてゆく

嗚呼、時の砂よどこ消えた

私は慌てて引っくり返す

私は何度も繰り返す

ため息一つついた後

空いた空間覗いても

飽いた私がいるばかり

今月のミラク(ほぼダンデライオン)

 

近場の本屋できららミラクを入荷してる本屋さんが見つかったのでこれからは余裕を持って購読が続けられそうです。

一番近くのアニメイトでもいいんだけど入荷部数が少ないみたいだし発売日過ぎてから行ったら売り切れてて在庫確認や注文のために店員さんと話さないといけないのはコミュ症を拗らせすぎた自分にはとてもつらいわけでして…

ミラク自体買うようになったのはダンデライオンのアニメを見てハマり、原作コミックスを読んでもっとハマってこりゃ連載も追いかけないとだぜってなったので放送中から購読し始めた口(確か国王選挙終了の話くらいから?)ですので、うらら迷路帖とか、音無さんは破壊神とかやさしい新説死霊術等、興味を惹く作品はいくつかあるのですが、いかんせん連載途中から読み始めることになったのでキャラクターの名前と顔が一致しなかったり、それぞれのキャラクターの関係性がわかんなかったりするのでそのうちコミックスを買ったり、漫画喫茶で読んだりして内容を把握していきたいなぁと思う次第です。また読んだら感想を残すこともあるかもしれませぬ。

で、城下町のダンデライオン。内容としてはダンデライオン一巻であった栞様と輝様のおつかいを思い起こさせる内容でしたね。あとアンジェ姫の能力判明回でもありました。輝様が鈍感というか純粋なところは残しつつもしっかりと外見的にも精神的にも成長している(アンジェを気遣って話を振ったり等)のを感じたり、栞様は奏様に似てきたねぇ…なんて親戚のおじさんかよみたいな事を思ったりしましたが、なにより茜様が自分から買い物についていこうかと言ったところで感極まるものがありました。(アンジェに監視カメラに気をつけるよう促すあたりまだ苦手意識はあるようですが)

二部はアンジェや茜様メインだとは思いますが一部が結構上のきょうだいたちにスポットを当てている感じでしたので二部は茜様より下のきょうだいの話にスポットあててくるのかな?一部終了から作中の月日も経っているっぽいので個人的には光様と遥様あたりの話が人間関係も含めどうなっているのか楽しみですね。次回は休載みたいですがこれからの展開も楽しみにしながら待ちたいと思います。