心の生け簀

自分のスキを好きにするためになんかするブログ

映画「メッセージ」を観てきました。

 

タイトルに書いたように映画「メッセージ」を観てきました。

この手のSF映画にしては個人的にはわかりやすかったですし、とっても面白かったです。

面白かったのでパンフレットも買いました。

このパンフレットも表紙と裏表紙の真ん中が劇中に出てきた独特の形のUFO(劇中では主に『殻』と呼ばれていた)の形に穴が開いててその先のページにあるUFOの画が見えるようになってたり、劇中でヘプタポットと呼ばれてた宇宙人が使っていた文字が書いてあるページがあってそのページの間に主人公のルイーズ(演:エイミー・アダムス)の後姿が写っていて劇中の対話シーンを再現した半透明のページが差し込まれたりしていて、かなりこだわって作ってあるなぁと思いました。後ろのほうに載っている著名人のレビューというかコラムもあそこはそういう意味だったのか、とかそういう考えもあるのか。とか自分では気づかなかったことや知識が足りなくてわからなかったこととかを知れたので、買ってよかったなぁと思いました。

あとこれは観た後これはいろんな人と感想を話し合うのも楽しそうだななどとも思うわけで、ともすれば誰かと一緒に見に行くのもいいんじゃないでしょうかねなどとも思うわけなのですが、私には関係のない話でした。はい。

そして情けないことではありますが大筋はともかく細かな部分がこうして書いている間に曖昧になっているところがあるのとある仕掛けがあるので時間とお金が許せばまた見に行きたいな。

あと監督の次回作となりうるブレードランナー2049も見に行きたいなと思えるほどに監督に対する信頼度が増したので楽しみしております。

 

 

 

 

と、あとは内容についての個人的な感想をちょっとだけ。前述のとおり記憶がちょっと曖昧になってるのと誰とも感想をすり合わせたりしてないので勘違いがあったりするのと内容のネタバレを含むと思いますので、そこだけ注意をお願いします。

 

 

 

原作を読んでなかったので見る前は映画のポスターや予告などから宇宙人侵略ものなのかなーなんて思ったりもしてたんですが、いい意味で裏切られました。あと時々挟まれる娘との回想(回想といっていいのだろうかうまい言葉が浮かばない)には思い返せばところどころヒントはありましたが素直にだまされました。これ知ってるのと知らないのとではまた感想が少し違ってくるのだろうなと感じたのももう一度見に行きたいなと思った要因であります。

独特な形のUFOもUFOっぽくない変わった形だなと驚かされましたが、平野の中に浮かんでいる姿は私だけかもしれませんがどこか2001年宇宙の旅でお馴染みのモノリスを想起させられました。

あとUFOにしては無機質感があまりなく表面もつるっとしていないのもなんだか新しいななんて思う一方で、なんだか川原に落ちてそうな感じだなとか、石切りしたらよく跳ねそうだななんてくだらないことも思ったり思わなかったり。

最後のシーンのイアン(ジェレミー・レナー)の台詞とその台詞を受けて起こりうる未来を頭に浮かべつつもイアンを強く抱きしめるルイーズの姿がとてもよかったです。

あのあと起こる出来事(ex:夫との別れ、娘との死別)は変わらないのかも知れないけれど彼女の気持ちは変わってくるんだろうななんて想像もできるわけで。

いろんな想像ができるいいラストだったなぁと思いました。

ヘプタの文字についての思ったこととかもちょっとあるのですがうまく言語化できないのでここまでにします。中国が麻雀でコミュニケーション図ってるのはすごい面白かったのと勝負事でコミュニケーションをとることを教えると勝敗がコミュニケーションの基準になってしまう云々の話はなるほどなぁと思わされました。

結末を。

なんだか前に何かを始めるにあたって終わりを気にしてしまうと書いたような気がするが、終わりを気にする割りに終わりに無頓着なのではないかと最近感じている。

例えば、完結した漫画、アニメ、小説等の物語の終わりを思い出そうとしても、終盤までのシーンは思い返せるのだが、肝心の終わりのシーンが思い出せずどう終わったんだっけ。ハッピーエンドな気はしたが誰がどうなったんだっけ。などとやきもきすることがままある。

単純に記憶力の問題なのだろうな。というのが一番ではある。

なんだかなぁ。

みかん

みかんがおいしい季節になりました

おいしいみかんはいらんかね

そこにあるのはみかんだよ

みかんだけれどかんせいひん

どこにもみあたらないだって

みつかんないのはみかんだからさ

さあさあかったらはやくたべなさい

みかんぼうやがきかんぼうやになるまえに

そんな感じで

「先輩、先輩!ここにおーいしーって書いてありますよ!一軒家に見えますけど料理屋なんですかね?」

「阿呆、それは大石さんちだ」

などというボケをぶらぶら出歩いてたときに大石さんちの表札を見て思いついたので吐き出しておきます。

というわけで吐き出すついでに日本語について普段ぼんやりと考えていることがあるので吐き出させていただきたい。

日本語についてと大見得を切りましたが、当方は日本語の歴史だとか小難しいことは勉強してませんので、素人考えの唯の言葉遊びでありますので少々ご容赦を。

それでは失礼して。

日本語というのはまず最初に「アイ」を教わる語学なのかなぁなどとぼんやりと考えている次第でして。

と、いうのも我々日本人が英語を教わる際にABC…から始めるのと同様に、日本語を始める場合はあいう…から始める50音、またはいろはに…から始まるいろはうたから始めると思うのです(あくまで思うだけですので実際のところはわかりません)。

そして50音の場合は最初の『あ』と次に学ぶ『い』をあわせて初めて出来上がる意味のある文字列として『あい』が出来ます。『あ』だけでも『い』だけでも意味のある単語はあるのではという反論が聞こえてきそうではありますが、その意見は飲み込んでいただきたいです。

そして次にいろはうたでも最初は『い』。なんだよアイじゃないじゃないかという感想はごもっともではありますが、『い』をローマ字であらわすと『Ⅰ』つまり『アイ』になるのです。

あといろは歌はおいておいて50音の話になりますが『アイ』の次は『う』なんですね。

この『う』もローマ字にあらわすと『U』つまり、『ユー』となって。

『アイ(=I【自分】)』を知った後に『ユー(=U=YOU【あなた】)』を知ることになるのはなんだか面白いなぁなんて感じる次第でありました。

後、『アイ』を使った言葉遊びとしましてよく私の頭の中をめぐっているのはAIってありますよね。人工知能の。

よく映画とかで人工知能が『愛』に目覚める展開があるのは、人工知能の英語の名称が『artificial intelligence』で、略称が『AI』、つまり『アイ』であるから愛に目覚めたりするのはある意味当然ではあるのかなぁなんて思ったりもします。

 

アイという言葉、単語が私の中で占める比重はなんだか大きいみたいでぼんやりアイとはなんなのか私のアイはどこにあるのかなんなのかなどとは日常的に考えている気がします。いつか自分なりの答えが見つけることが出来るのかどうなのかはわかりませんが、私はこれからもアイについて考え続けていくんだろうななんて今の私は思うわけです。

ぼんやり

いつからだろう『終わり』を気にして物語を読むようになったのは。

DVDにしろ本にしろどれくらいの時間なのか何ページなのか何巻まで続くのかを気にして、長ければその時点で大体諦めているように思う。

記憶をたどるとバラエティー番組とかでも終盤に入るどちらが勝利するのか的な煽りとかに対して時計を見て番組の残り時間からして逆転はなさそうだなとか考えていた気もするので『終わり』を気にするのが自分の性分であるということなのだろうか。

かといって『終わり』が訪れた後次に何をするわけでもないのだ。

計画的な人間であれば終わりを気にして物事に取り組むのはよいことなのではと考えるが、自分の場合『終わり』を気にするあまり『始めた』ら『終わらせること』を大前提にしてしまうので、本末転倒な感が否めない。

一心不乱に『終わらせること』はまぁそれ自体も大事ではあると思うのだが、『終わり』までに自分が何を感じたか、何を得たのかということが大事なのではないかなぁと感じる。

 

世界が黒く塗りつぶされたとして一瞬塗りつぶされない部分が出来たらその部分が私なのだろう。

けれど世界は塗りつぶされることはなく各々が各々の色で世界に色をつけている

だとしたならば透明な私は透明な色で世界を塗ることしかできないのだろうか。

 

私ここに在らず。

 

私は生まれながらに己の中に獣を飼っている。

とはいえ、はじめ私と獣は一つだった。ともに生き、共に成長する。
獣の意思は私の意志で、私の意志は獣の意志だった。
しかし、とある時期を過ぎると、私は『私』と『獣』に分けられた。
正しくは『獣』を切り離したというべきか。
『獣』はとても我が侭で、傲慢で、とても自由なのだから。
『私』は『獣』を切り離し、
『私』は『獣』を閉じ込めた。
私の奥の底の底。
誰にも見えない不可視の檻。
『私』と『獣』だけの檻。
私という名前の牢獄。
閉じ込められた『獣』は常に、私を内から傷つける。
それは『獣』を閉じ込めた『私』に対する反抗なのか。
それとも、私を通して見える『外』に手を伸ばしただけなのか。
いずれにしても『獣』の爪は『外』には届かず私に阻まれ、私の内に傷を増やす。
『私』は『獣』と分かたれて『獣』の言葉を忘れてしまい、
『獣』は『私』と分かたれて『私』に言葉は届かない。
『獣』がなんらかの意図を持ち、傷をつけていたのだとしても
『私』は私の内に刻まれた傷の一つと認識をする。

もしも『私』の爪が『獣』の代わりに『外』を引っかくことが出来たなら
もう一度一つになれるのだろうか。